ヒキコモリータの生き抜く途

(旧ブログ名 イタリアなのにひきこもり) 

別れ

この記事は一年前のFesta della donna直後に書いたもの

あまりに辛くて公開しなかった

一年経って下書きから引っ張り出した

 

友人が他界した

名前はジャンニ、64歳だった

彼は我が家の隣にある八百屋さん兼酒屋さんのお兄ちゃん

コロナ前は毎日のように通うBARだった

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朝、仕事に行く時、いつものように挨拶をし世間話をした

5時間後、私が家に帰ると夫が「ジャンニが死んだ」と呆然としていた

昼食休憩後、職場に戻らず連絡がつかなかったため、彼の息子が自宅に向かったところ倒れていたらしい、そして、そのまま旅立った

 

私がイタリアに住み、最初のFesta della donnaにミモザをくれたのは彼だった

彼の奥様が外国人(スペイン人)ということもあり、異国に嫁ぎ、生活を続ける苦労を彼はよくわかっていたのかもしれない

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2022年5月、私の父が他界したにもかかわらず日本への帰国が叶わないこと、イタリアでの乳癌手術を前に不安になった私は夫とひどい夫婦喧嘩をした

夫の暴力から逃げるため、彼のお店に駆け込んだ

彼は何も言わず、じっと私の顔を見て、話を聞きながら悲しそうな眼をしていた

夫が呼んだカラビニエーリ(警察)が到着すると、彼が対応してくれた

「冷静に状況を話せばいい。カラビニエーリ(警察官)はとても親切だから、マリアのイタリア語を理解してくれるだろう。状況がこれ以上悪くならないから安心しなさい」とだけ言った

その日以降、数カ月間、彼とは挨拶はするが会話をすることはなかった

夫と小さい頃から仲良しの彼は、夫に気をつかってのことだろう

 

半年が過ぎ、夫と二人で外出する機会が増え、二人で歩いていると彼から世間話をするようになった

きっと私達夫婦関係が戻りつつあることに安心したのだろう

 

そして、私のパートの仕事が決まり、初出勤の朝、彼に会った

「よかった。家から出ること、そして、外国で家族以外と母国語で会話できる時間は貴重だから、本当によかった」と言った

彼の言う通りだと、思った

その後も彼に挨拶をしてから出勤するのが日課だった

 

辛いこと、悲しいこと、生きていれば必ず経験する

その時は静かに時が流れるのを待とう

そして、また笑おう

彼とまた会える時には、楽しく幸せだったイタリア生活を報告しようと思う

ジャンニの悲しそうな眼を思い出すともう二度と夫婦喧嘩はしない

 

百人以上の友人、近所の人達に拍手で見送られて彼の棺は教会をあとにした

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もうすぐジャンニがいなくなって初めてのFesta della donnaがやってくる

彼からもらったミモザを決して忘れない

 

季節の変わり目、気候が安定しませんが、くれぐれも御身ご自愛くださいませね

どうぞ、皆さまお健やかに😊

Grazie!!! Smile!!

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