イタリアで生活していると「謙遜」という言葉は全く意味がない。
日本人が謙遜の中に感じる「美」など「知ったこっちゃない」という感じ。
長年、日本に住んでいた夫でさえそうなのだから、イタリア人に「謙遜」を理解してもらおうとは思わない。
今年2月までの完全に引きこもりと無気力、寝たきりから、春には少し外出やBARに行ったりと活動的になり、そしてまた今は家の中で活動していて意図的に外に出ない。
外出しても人と接触しない。
笑顔で挨拶をしていたが、それももう必要ないかな?とまで思うようになった。
それは、イタリア人に「謙遜」は求めなくても、少しは「敬意」を表してもらいたい。と期待したが、それも難しい。と感じたから。
もちろん、全員がそうではない。
マリナ叔母さんは毎日、朝6時から3回家に来るようになり、限界がきた。
「用事がある」「勉強している」と言ってもタバコを吸いながら家に入ってくる姿に堪えられなくなった。
呼び鈴も無視し、洗濯物を干している時に見つからないように、朝6時に洗濯を干し、お昼寝時間中に入れる。
挨拶を交わす人に「電話番号を教えて。旦那のいない時に遊ぼう」と言われて、吐き気がした。
彼は、イタリア人には決して言わないだろう。
マリナ叔母さんもイタリア人には、強引ではないだろう。
夫に相談すると、「みんながそうじゃないけど、あなたや日本人の謙虚な丁寧な態度、愛想良さをイタリア人は ❝ 下 ❞ に見てしまうのかもしれないね。失礼な態度をとるつもりはなくても、誤解しちゃうのかもね」という考察。
「なるほど」
「日本、日本人には敬意を持っていても、イタリア人は笑顔、微笑みの奥のプライドまで理解できないからね。あなたが厳しい言葉を発しても、気分を害しているようには見えないし」
「あ~そうですか。キリっとした顔じゃなくてすみませんねぇ~」
日本で生きている時には必要だった「謙遜」
「驕る」ことさえなければ、イタリアでは必要ないものだと思うようになった。
凛々しい顔に生まれたかったな...
Grazie!!! Smile!!!